今よりも、もっとずっと日本サッカー、というか日本代表のサッカーが熱かった日々がある。昔の思い出だから美化されているとかそういうのではなくて、リアルに熱かった。というか、加熱しすぎて暴動が起きたり殺害予告があったりした。今思えば、ほんと日本か、というぐらい異常な熱気と怒り、叫びに満ちた日々だった。
そんな日々の思い出の頂点に立つのがこの日、1997年11月16日ジョホールバル。この日、1998 FIFAワールドカップ・フランス大会アジア最終予選の第3代表決定戦に勝ち、日本代表がはじめてW杯出場を決めた。この日の記憶を5人の人物にインタビューしたのがこの動画。作ったのは当時日本代表ウルトラスのリーダだった人。
インタビューされているのは、延長Vゴールを決めた岡野雅行、日本に帰化した呂比須ワグナー、監督の岡田武史、名波浩、井原正巳、山口素弘の五人。
岡野さんの話が面白いのはすでに有名かもしれないが、じーんときたのは岡田監督の話だった。インタビューアの「ジョホールバルって岡田さんにとってなんだったんですか」との質問に対し、「この試合の前にこう思った。負けてもオレの実力不足ってことなんだから謝ればいい。全力でぶつかろうとふっきれた。それまでオレはそんなに強い人間じゃなかった。ジョホールバルでオレという人間が変わった」そんな話をしていた。こういう話、そんなに人から聞ける話じゃあない。ぜひ直接監督の声を聞いてみてほしい。
で、ドーハについての動画もある。同じ人の作成。
今回のインタビュー相手は、柱谷哲二、松永成立、長谷川健太、都並敏史、北澤豪。
こっちの方は、上のジョホールバルのとは全然印象が違う。それは、勝った予選と負けた予選についての当事者の記憶の違いだと思う。勝った時の記憶はいいものだし、そこが将来の分岐点になったという感じがインタビューから伝わってくるが、分けた時の記憶というのは、負けたという記憶しかない。この時の敗戦が日本サッカー史において出来事となっているのは、4年後のジョホールバルがあるからであって、もしそうでなかったらただの無様な敗戦に過ぎない。
柱谷は試合が終わったあと、2ヶ月くらい白いボールの夢を見たと話す。ショートコナーからのクロスが自分の目の前を横切っていく映像、それに試合後二ヶ月苦しめられたという話だ。今でも、10月28日が近づくと当時の記憶にさいなまれるという。さらに、とくに聞いてほしいのは最後の北澤のインタビューだ。事前の対韓国戦で大活躍していたにもかかわらず、当日試合に出してもらえなかった苦悩が語られる。「自分は出してもらえたら必ずあの試合で結果を出せた。それがオレの確立してきたプレイスタイルだった」。あのときからどんなに時がたっても、あの時の悔しさは当時のままだ。
こちらの動画も見てほしい。
当時の関係者が集まってドーハの映像を見る話。これ、当然だけど北澤さんは来てない。注目すべきはラモスが映像を全然見てないこと。これ、辛くて見られないんだと思う。自分のミスから失点したのを知ってるから。
これも見てほしい。
問題のミスパスのシーン。これは、当然ラモスだけが責められるべき問題ではなくて、当日こういう状況になったときどうするかが全然事前に話し合われてなかったというのが問題。監督も含めてお前ら何やっとんのじゃ。いや、思い出せば、当時見ていて、「なんで北澤をださんのじゃー」と思っていた感情が蘇ってきた。これ、悲劇でもなんでもなく、単純にオフトの采配ミス。ただそれだけ。あのとき武田を出してしまった監督の責任。あとほんの数十秒耐えることができていれば勝てたのに、それができなかった采配。そのことが、いまでも消えない北澤の思いを聞いてより明らかになった。数十年後に集まって美談にしてんじゃねーよクソが。あー30年ぶりに腹たってきた。
サッカーがわかるようになったあとでこの試合のことをもう一度詳しく知れば知るほど、覚悟のない人間の犯したしょうもないミスだったというのがよくわかる。思うに、監督というのは無能なものだと諦めて、それをフォローし管理する体制が必要だよなあ。代表でもクラブでも。
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